枕元の時計を見ると、朝の8時だった。
もう二度と、迎えることがないと思っていた朝。 ため息を吐き、頭を掻いた。「あいつは……」
隣で寝ていた海がいない。
もう出ていったのか? そう思い起き上がった大地の背後から、海の声がした。「おはよう」
「……」
振り返ると、コーヒーカップを持った海が自分を覗き込んでいた。
笑顔で。「……おはよう。もう起きてたのか」
海からカップを受け取り、一口飲む。
「……うまいな。コーヒー淹れるの、得意なのか?」
「裕司〈ゆうじ〉が好きだったからね。結構練習した」
「……そうか」
「うん、そう」
「よく眠れたか?」
「うん。大地のおかげ」
「何もしてないと思うけど」
「一緒に寝てくれたじゃない」
「間違ってはないんだけど……人が聞いたら誤解されそうだな」
「困る?」
「いや……どうでもいいよ」
「裕司がいなくなって2か月。ずっと一人で過ごしてきたの。本当、寒くて寂しくて辛かった」
「そうなのか? 俺はてっきり、昨日のように毎晩男を漁ってたんだと」
「見境のない女みたいに言わないで。あんな風に声をかけたの、昨日が初めてだったんだから」
「じゃあ、これまでずっと我慢してたのか」
「そうだよ。死んで裕司の元に行くんだから、それまでは操を守るって決めてたの」
「じゃあなんで、昨日はその誓いを破ったんだよ」
「あれはその……仕方ないじゃない。死ぬ決意が揺らいじゃったんだから。これから決心がつくまで、また一人で寝なくちゃいけないんだって思ったら耐えられなくて」
「まあどっちにしろ、死んでまでして会いたい男への操なんだ。守れてよかったな」
「大地のおかげだけどね」
「そうだな、だから感謝しろ。そして二度と、ああいうことはしないでくれ」
「なんで大地、そんなに気遣ってくれるの?」
「嫌なんだよ、そうやって自虐的に抱かれる女が。それって自傷行為みたいなもんじゃないか」
「ふふっ」
「なんでそこで笑う」
「ごめんなさい。でも、ふふっ……大地、面白いなって思って」
「芸人を目指してるつもりはないんだが」
「そういう意味じゃなくて。どうせ死ぬ私のことなんか、放っておけばいいのに」
「ただの他人なら、こんなこと思わないよ」
「他人でしょ? 私たちお互い、名前と年齢しか知らないんだし」
「それと、お互い死にたがってる馬鹿ってこととな」
「違いない、あははっ」
「ははっ」
海が遮光カーテンを開けると、部屋が一気に明るくなった。
「いい部屋ね」
「そうか? 普通だろ」
「私が前住んでたところは、向かいがオフィスビルだったの。カーテンを開けたままだと丸見えだから、ずっと閉めてたの」
「ここは国道沿いだからな。車の音がうるさいのが困るけど」
「でも本当、気持ちいい。ねえ、ちょっとだけ窓、開けていい?」
「いいよ。たまには空気も入れ替えないとな」
窓を開けると、大地が言ったように車の音が耳に響いた。
「ここに引っ越した頃は、この音が嫌いだったんだ」
「今は?」
「嫌いなのは変わらない。でもまあ、慣れたって感じだな」
「そうなんだ。私は結構好きだな。誰かと繋がってるって感じで」
「どんだけ寂しがりなんだよ、お前は」
「仕方ないじゃない、寂しいのは本当なんだから」
そう言って大きく伸びをした。
「お腹、空いてない?」
「朝は食わない派なんだ」
「……大地って本当、コミュニケーションをとる努力を放棄してるよね」
「なんでだよ。朝食わないのは本当なんだし、何も悪くないだろ」
「私がこう聞いたのは、一緒に食べようって誘ってるからでしょ? それぐらい分かりなさいよ」
「だから俺は食わないんだって。食いたきゃ一人で勝手に食えよ。冷蔵庫に何かあるだろ」
「だーかーらー、もう用意してるんだってば」
「作ってるのかよ」
「そうよ。大地の分もね。それでどうなの? 食べる? 食べない?」
「いや、その……作ってくれてるんだったら食べるよ。ここでいらないって言うほど、俺も空気読めない訳じゃないから」
「よかった。じゃあテーブル出してて。持ってくるから」
それでか。さっきからいい匂いがすると思ってたんだ。
そう思い、テーブルを出してから洗面台に向かった。 * * *「……」
顔を洗い鏡を見る。 情けない面だな、お前。 死地に向かったにも関わらず、またこうして一日を始めようとしている。 昨日出会ったばかりの、おかしな女と一緒に。 昨日思ったよな。こうして顔を洗うのも、これで最後なんだって。 どれだけ自分との誓いを破るんだよ、俺は。「冷蔵庫の中、卵とベーコンしかなかったから」
テーブルに並んだ二枚の皿。
それを見て。大地は自虐的な笑みを浮かべた。 笑うしかないよな、こんなの。 これまでの人生、女に飯を作ってもらったことなんかなかった。 一夜を共にした女もいない。 死ぬと決めてから、こんな初体験をしてる馬鹿がここにいる。 本当、馬鹿げてる。 でも。 不思議と気持ちが軽くなっていた。 海の笑顔に、心が癒されている。 もうすぐ死ぬ俺に、必要のないひと時。 神がいるならこんな時間、もっと必死に生きてるやつに譲ってやれよ。 そう思い、笑った。一年後。 青空〈そら〉の誕生日であり、一周忌にあたる1月19日。 有料老人ホームがオープンした。 施設長は浩正〈ひろまさ〉、大地は管理者。 海は喫茶「とまりぎ」の責任者として、従事することになった。 * * * この日は運動場を開放し、オープンを祝うたくさんの客が訪れていた。「おめでとう、浩正くん」 車椅子の下川が微笑む。「ありがとうございます。何とか無事、オープンすることが出来ました」「青空〈そら〉ちゃんもきっと、天国で喜んでるわ」「そうですね。でもね、下川さん。天国は勿論ですが、ここにも青空〈そら〉さんはいますからね」 そう言って入口に掲げられた看板を指差す。「そうね、そうだったわね」 有料老人ホーム青空〈そら〉。 それがこの施設の名前だった。「浩正さん、利用者さん一名、到着されました」 そう言って大地が門まで走り、車を誘導する。「すいません大地くん、お願いします」「任せてください」 大地が笑顔で答え、車から降りてきた利用者に手を差し出す。「ありがとう。随分賑やかね」「ようこそ青空〈そら〉へ。歓迎します」 海は運動場を走り回り、スタッフたちと接客に当たっていた。「海ちゃん、本当におめでとう」「ありがとうございます。山田さんも、今日はゆっくりしていってくださいね」「海ちゃん、本当にしっかりしてきたわね。これなら新人さんたちも安心ね」「あはははっ、私、最初の頃はおっかなびっくりでしたからね」「でもここを任されてからの海ちゃん、本当に見違えちゃって。格好いいわよ」「あはははははっ、そんなに褒めても何も出ませんよー。あ、でも紅白饅頭はありますから。後で召し上がってくださいね」 そう言って後輩スタッ
買い物から帰ってきた海が、呆然と大地を見つめる。「何……してるの……」 大地は台所で料理をしていた。「おかえり、海」 そう言って振り返った大地を見て、海の目に涙が溢れた。「どうしたどうした。泣くほど寒かったのか? 早く入ってあったまれよ」 海の元に進み、そっと抱きしめる。「そろそろ俺の料理が恋しいんじゃないかと思ってな。久し振りに作ってみた」「大地……」「いっぱい迷惑かけたな。ごめん」「もう……大丈夫なの?」「ああ、大丈夫だ」「……終わったの?」「ちょっとばかり強引だったけどな。何とかなったと思う」「……」「海?」「もう……死にたいって思ってない?」「思ってないというか、死ぬのが惜しいと思った」「……」「死んだら海のこと、こうして抱けないからな」「馬鹿……」「それに……これからだろ? 俺たちの人生は」「大地……」「とにかく手を洗って座ってろよ。全部ちゃんと話すから」 そう言うと海は肩を震わせ、大地を抱きしめた。「うわあああああっ!」 大地は微笑み、囁いた。「愛してるよ、海」 大地の目にも、涙が光っていた。 * * *「そんなことしたんだ、あはははははっ」 風呂から上がり、肩を並べて座り。 ビールを手に、海が笑い転げた。「……そこ、笑うところか?」
カーテンを開け。 煙草をくわえ、火をつける。「……」 大地は混乱していた。 海に促されて始めた自己問答。それが思いもよらぬ方向に進んでいた。 人を信じない。誰とも関わらない。それが自分の哲学だった。 それなのに今。実はそれを渇望していたという結論に辿り着いてしまった。 それは大地にとって、驚愕の事実だった。 本当は俺、人と関わりたかったのか? そう思い、眉間に皺を寄せ。白い息を吐く。 そして思った。 自分にとって、深く関わりたいと思えた他人。 青空〈そら〉。浩正〈ひろまさ〉。 そして海。 青空〈そら〉は死んだ。二度と関わることが出来ない。 その絶望は自分にとって、死を選択するに十分なものだった。 浩正さん。 生まれて初めて、尊敬出来ると思えた他人。 思慮深く、人の痛みに理解を示し、手を差し伸べる聖人のような男。 姉を愛し、共に生きることを誓ってくれた人。 だけど俺は彼に対して、いつも心を閉ざしていた。 もし、この人にまで裏切られてしまったら。二度と立ち直れないと恐れたからだ。 * * * 海。 星川海。 こいつと出会ってまだ、数か月しか経っていない。 それなのにこいつのことを、ずっと昔から知っているように思っていた。 この世界に絶望している同志。 最初はそれだけだった。そう思っていた。 だが青空〈そら〉は言った。『あんた、そこまでお人好しだったっけ。いつものあんたなら、後をつけてまで助けるなんてこと、した?』 その言葉に動揺した。確かに俺らしくない、そう思った。 海がどうなろうと、それはあいつの選択だ。 何より海は俺と同じく、近い内に死のうとしてるやつだ。そんなやつがどうなろうと、自分には関係ないはずだっ
俺が生きる意味。死ぬ意味。 それはなんだ? * * * 海は言った。俺の根底にはいつも、絶望があると。 その意味を読み解いた時、何かが変わると。 面白いやつだ。 そんな発想、思いつきもしなかった。 これまでずっと、死を渇望しながら生きてきた。 どうしてだ? 毎日飯は食えるし、欲しいものを買う余裕だってある。 自分の時間もあるし、仕事だってそれなりに楽しい。 煩わしい人間関係も持ってないし、特にストレスを感じることもないはずだ。 それなのに。 どうして俺は死を願ってたんだ? * * * 青空姉〈そらねえ〉が死んだ。 俺にとって唯一とも言える、この世界の光。 それが失われ、俺は絶望した。 ある意味壊れた。だから死を実行しようとした。 だが海は言った。 本当にそれだけなのかと。 確かに俺は今まで、青空姉〈そらねえ〉が生きていたにも関わらず、ずっと死を考えていた。望んでいた。 いや。 海に言わせれば呪いか。 青空姉〈そらねえ〉が死んだことで、その思いが強くなったのは確かだ。 しかし俺はそれ以前から、ずっと前から死にたいと思っていた。 それは何故だ? * * * 親父が憎かった。 俺が逆らえない弱い存在と分かった上で、自分のストレスをぶつけてきたあのクズが憎かった。 母親が憎かった。 いつも俺を罵倒し、心を殺してきた悪魔が憎かった。 お前たちは親という立場にも関わらず、俺たちを育てるという最低限の仕事もせず、ただただ見下し、排除することを望んでいた。 そんなお前たちを、俺はただの一度も親だと思ったことはない。 お前たちのおかげで青空姉〈そらねえ〉は右目を失い、心に深い傷を負った。 お前たちがいなければ、俺た
次の日。 目覚めてからずっと、大地は泣いていた。 * * * 昨日、異様なテンションで喋り続けていた大地。 浩正〈ひろまさ〉の忠告を思い出し、海はずっと緊張していた。 夜、大地が眠りについた時。乗り切れたと安堵した。 青空〈そら〉さんが守ってくれた、そう信じ涙した。 それなのに。今日は打って変わり、泣き続けている。 この不安定な情緒こそ、今の大地なんだ。 丸裸になった彼の心。 まるで獣に睨まれ、怯えている小動物の様だ。 泣き続ける大地をそっと抱きしめ、海は囁いた。「どうして泣いてるの?」「分からない……自分のことなのに、分からない……」「そうなんだ……でもそれ、普通なんじゃない?」「そう……なのか?」「だってこれ、大地が言ってたことだもん」「俺、なんて言った?」「自分のことが分からない、他人の方が自分を分かってる。そんなの当たり前だって言ってた」「ははっ……そんなこと言ったのか、俺」「大地は今、何を考えてるの?」「それは……」「泣いてる理由が分からない、そう言ったよね。だから質問を変えてるの。今、何を考えてる?」「……怒らないか」「怒らない。約束する」「……死にたいんだ」「そっか……」 笑みを崩さず、海は抱きしめる手に力を込めた。「青空〈そら〉さんがいないから?」「だと……思う……」「寂しい?」「ああ、寂しい……」
それから数日が経ち。 禁断症状がかなり治まっているのを感じた。 短い時間ではあるが、夜も眠れるようになっている。 煙草の本数に気をつければ、頭痛も酷くならなかった。 少しずつ、食事も摂れるようになってきて。 肉体的にかなり楽になってきたと実感した。 しかし。 入れ代わるように、今度は心が蝕まれていった。 言い様のない不安。恐れ。 それらが全身にまとわりついていた。 * * * 体が震える。 ジャケットを出して羽織る。 しかし震えは治まらなかった。 なんなんだ、これは。 大の男が部屋で一人、何を震えてるんだ? 禁断症状の時とは違う、体が自分のものでないような感覚。 なんでこんなに寒いんだ? そう思いスマホを見ると、気温は20度になっていた。「はああっ? 壊れてんのか?」 しかしすぐに思い直した。 違う、壊れてるのは俺の自律神経だ。 そう言えば昨日、天気予報で5月並みの陽気になると言っていた。 そう思うと、急に暑く感じてきた。 慌ててジャケットを脱ぐ。シャツを脱ぐ。 全身に汗がへばりついていた。 大地はタオルで汗を拭い、新しいシャツに袖を通した。「……また……寒くなってきたな……」 再びジャケットを羽織り、苦笑する。 寒いんだか暑いんだか、よく分からん。 色々と……壊れてるんだな、俺。そう思った。 そして。 嫌な感覚を覚えた。 何かに監視されているような感覚。 視線を感じ、クローゼットを見つめた。「……」 何も起こらない。当たり前だ。 この家に住んでるのは俺と海。他に誰もいない。 海は今、買い物に出